コラム『松本すみこのシニアライフ』 No.8

 

ポーランドへの旅 (2) 負の遺産「アウシュビッツ

2016年2月22日

 
 

◆アウシュビッツの立地

ポーランドには、いたるところにユダヤ人が居住していた跡があります。ザモシチの町のユダヤ人居住区だったという場所には、壁に当時の写真を掲示し、シナゴークだったという建物も残してありました。しかし、今はたった2組のユダヤ人しか住んでいないとのこと。いなくなった理由は明白です。多くが強制収容所に連行されたのです。写真を残してあるのは、忘れてはいけないという戒めでしょうか。

クラクフにも、多くのユダヤ人が住んでいました。中世に西欧で迫害を受けたユダヤ人が、寛大な政策をとっていたポーランドに流れ込んできていたからだとか。ユダヤ人迫害の歴史は長いのですね。

アウシュビッツに向かう道々、何本もの線路が目に入りました。収容所がこの地に造られたのは鉄道網が発展していて、各地から収容者を連れてくるには便利な場所だったから。もとはポーランドの政治犯を収容するための施設で、ロマ(ジプシー)やソ連軍捕虜、ドイツの刑事犯なども収容されていたということです。しかし、戦火の拡大と共に、ナチスは周辺の農村地帯の住民を強制退去させ、「ユダヤ人絶滅センター」として拡大させていくのです。

◆国立オシフィエンチム博物館

私たちが見学したのは、今は国立オシフィエンチム博物館となっているアウシュビッツ収容所1号と、第2号収容所の「ブジェジンカ」です。

収容所1号の正門には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という言葉が掲げられています。最初は、東ヨーロッパに移住させられると思っていた人や、いい仕事がある、土地を上げると言われて、土地代を支払ってやってきた人もいたとか。

 入り口で選別される人々

収容所では労働力となる人やガス室送りになる人に分けられましたが、人体実験や研究材料として選別された人もいます。双子、妊婦が多かったということです。労働力となった囚人たちは働いて帰ってくると、音楽隊の演奏に迎えられました。労働の疲れを癒すためではなく、行進の隊列を整えて、数えやすくするためでした。

 

建物の中には収容された人たちが残したおびただしいメガネや靴、カバン、義足、日用品、子供の洋服などが展示されています。履いていた女性をほうふつとさせるような華奢なサンダルや靴の数々。トランクには住所が書いてあります。いつか戻る時に、他の人のカバンと間違わないようにと書いたのでした。人体の灰だという展示もあります。

しかし、これらは実際の遺留品のほんのわずかに過ぎません。敗戦を覚悟したナチスは、証拠隠滅のために、ほとんどの資料を焼き尽くして逃走。いま、私たちが見ることができるのは、処分が間に合わなくて残ったものだけなのです。

ユダヤ人は財産を携えて、収容所にやってきました。もともと商売上手で金持ちが多かったので、彼らから没収した財産や金品は膨大。ナチスはそれを本国に送りました。送ったものの中には、大量の女性の髪の毛もあります。それで布を折って、絨毯などにして売るビジネスもありました。買った人は、知っていて使ったのでしょうか。

ドイツは第一次世界大戦でも敗戦国となり、国土は荒廃し、多額の賠償金を抱え、どん底にありました。その苦しさから逃れるため、ドイツ民族の優秀性と国力の回復を掲げるヒットラーに、国民は国の救世主としての姿を重ねてしまったと言えます。物もお金も不足していたドイツでは、どんなものであれ、送られてくる金品は有難いものだったはずです。ヒットラーにもっとも熱狂したのは軍人でも右翼でもなく、一般の市民だったのです。

 

展示は、ガス室の模型、何人もの人が銃殺された死の壁、絞首台、焼却炉と続きます。さすがに誰も声をあげなくなりました。

◆第2号収容所の「ブジェンジンカ」

第1収容所から歩いて15分ほどのところに、第2収容所があります。線路が正門をくぐり、強制収容所中まで続いています。教科書で見て収容所の象徴的な風景です。正門の2階の展望所に上がると、まさにバラックといった建物が並んでいるのが見えます。これが収容者に与えられた住まいでした。

私たちはツアーなので、時間が決められていて、次の目的地に行く時間が迫っていました。なんだ、どんな家に住んでいたのかは見られないのかとちょっとがっかりしていたら、勇気ある女性が声をあげました。「ここまで来て、これで終わりなの!なんのために来たかわからないじゃない!」。皆、同じ気持ちですが、仕方ないかという思いも。

しかし、降りると添乗員さんがこう言いました。「少しなら時間が取れます。その代わり、クラクフでの自由時間は少なくなります。いいですか」と。もちろん、皆、異論はありません。声はあげてみるものだな、おとなしくしている場合じゃなかったと反省しつつ、声を上げた女性に感謝!

最初の建物は洗面所。丸い穴が並んでいるだけです。こんなところで...。次のバラックは居住棟らしいのですが、コンクリートの高床があるだけでした。ここに腐ったような藁を敷いて住んでいたとか。まさに家畜同然。薪を焚く暖炉のようなものがありましたが、おそらく奥まで暖かさは届かなかったでしょう。不衛生なための感染症、寒さでなくなった人が多かったと聞きました。

 

鉄道の引き込み線の奥には焼却炉やガス室が残っているそうですが、そこまで行く時間はありません。それよりも、もうたくさんだなという気持ちもしてきます。人間の中に潜む残虐性を知らされました。

◆悪の凡庸さ

振り返って考えれば、ユダヤ人を探すこと、収容所に連れてくること、選別すること、ガス室に送るまでの準備、ガス室での手続き、その後の処理。すべてが恐ろしいほどにシステマチックです。あまりにシステム化されていて、携わっていた人は、それがどんなことなのかを理解できなかった、あまりに日常化した仕事になっていて考えることすらしなかったのではないでしょうか。だからといって、許すことはできません。

ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人女性哲学者のハンナ・アーレントは、ユダヤ人を移送する業務を統括していたルドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」と表現しました。答弁で紋切り型の決まり文句や官僚用語をくりかえすアイヒマンは怪物的な悪の権化などではなく、思考の欠如した凡庸な官僚に過ぎないと分析するのです。そして、元凶は考える能力の欠如、「誰か他の人の立場に立って考える能力」の不足だと。

最も悪なのは「ものを考えないこと」。これは私たちにも無縁なことではありません。そうした要素は私の中にもあります。だから、やっぱりしっかり考えて生きる必要があるのだと知らされた旅でした。アウシュビッツは、つらいけど、やはり行くべき場所です。

*余談ですが、ハンナ・アーレントは同名の映画にもなったので、観た方もいるのではないでしょうか。私は、大学での学生に向けた講義の場面に感動しました。さらに余談ですが、一時はハイデッガーの愛人だったともいわれる人です。中公新書には彼女の生涯と思想を紹介した『ハンナ・アーレント 戦争の世紀を生きた女性哲学者』があります。

 
 
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